恐れに溺れる時に信仰によって歩むこと (マタイ 14:22-36)

2020年4月05日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

ここ何週か、コロナウィルスを踏まえて、ミニシリーズをしていますが、今日もまた別の有名な聖書箇所から見ていきたいと思います。マタイの福音書14:22-36です。この箇所を読む時、私たちが考えるべき質問があります。あなたは、何かに気持ちがいっぱいいっぱいになる時、何かに圧倒されそうな時、もしくは、恐れの感情に溺れているような気持ちになる時、どうしますか?今日の聖書箇所からの3つのポイントです。1.私たち皆が必要な信仰の刷新 2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ 3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手。

1.私たち皆が必要な信仰の刷新

22~24節
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟はすでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

22節で、イエスは弟子たちを群衆から離れさせ舟に乗せた、とあります。「群衆を解散させた」という言葉に注目してください。東京でものすごい人ごみを見たとき、圧倒されますか?イエスは、群衆に圧倒されたから、解散させたのではありません。少し前の14節でイエスは、大勢の群衆を見てひどく「憐れみ」ました。13-21節でのことを頭に置いておいてください。イエスは一つのパンを5000人に分けれるほど増やしたばかりでした。しかし、弟子たちは、パンが増やされたことがどういうことを意味するのかを理解していませんでした。

Q:質問です。あなたは群衆の一部ですか?あなたは遠くからイエスを慕っている人ですか?それとも、イエスと関係の近い弟子ですか?なぜなら、イエスさまがここで弟子たちを群衆から離したのは、彼らを教えるためでした。8章で最初の嵐が起こりました。その時、イエスさまは弟子たちと舟に乗っていました。しかしここでは、舟上から離れることで彼らに教えようとされました。だから23節で、弟子たちを解散させた後、「祈るためにひとり山にお登りになった。」とあります。思い出してください。これはイエスさまの人生でありミニストリー(伝道活動)です。イエスさまは、習慣的にひとりになれる所へ行って、神さまに祈っていました。13節にも「ひとり人里離れた所に退かれた」と書いてあります。あなたがクリスチャンなら、質問です。今こういう時、神さまと2人きりの時間はどういうものですか?あなたは社会的距離をとるこの時間を無駄にしていないですか?

いいですか、イエスさまは、頻繁に、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)をとっていました。それは、そうせざるを得ない状況だった訳ではなく、ミニストリーの働きの中で必要なことだったからです。イエスさまにとっては、ソーシャル・ディスタンシングは、天の父とのつながりを深めるための方法でした。では、なぜプライベートな祈りの時間がそんなに大切なのでしょうか?

6:6でイエスさまは弟子たちにこう言いました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見れおられるあなたの父が報いてくださる。」

宗教的な心から祈ると、人々からの承認を求めてしまいます。あなたが1人で祈る時、誰も”宗教的さ”を見せる人はいません。宗教的パフォーマンスをする必要がありません。神さまだけがあなたの会衆だからです。神さま以外にあなたの祈りを聞いている人はいません。だから、そこに霊的誠実さがあるのです。もう一つ、ヨハネ6:15で、イエスさまが群衆を解散させたのは、群衆がイエスさまを王とならせようとしたからです。彼らは、ローマ帝国の抑圧から助けてくれる、政治的な救い主を求めていました。しかし、皮肉なことに、「イエスは群衆を解散させ、1人で祈った」のです。イエスは、世間的な栄光と王冠を得るために来たのではありませんでした。だから、「祈るためにひとり山にお登りになった。」のです。その目的は、祈るためでした。新鮮な空気を吸いに行くためではなく、内側から新しくされるために祈ることでした。いいですか、あなたが気晴らしにする、iPhoneやゲーム、ガジェットなどの中にいる”群衆”から離れるとき、不快な静かさに直面します。私たちの多くは、ゲームやガジェットなどのスイッチを切って、ただ神さまと時間を過ごす時まで、どれほど非霊的状態にいたのか、気づきません。そのような不快な静かさの中で、私たちは、どれほど自分が忍耐がなく、落ち着きがないかに気づきます。その心地よくない静けさの中で、神さまの内にいる時に、弱い自分でいられることの意味を理解し始めます。23節では、「夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」とあります。

いいですか、人間的な肉体を持ったイエスさまには限界がありました。ミニストリーや仕事に求められるものが多くなると、イエスさまも祈りによって霊的に新しくされるため、長い時間が必要でした。24節で、「ところが舟はすでに陸からとても離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。私たちはよくこう思います。「神さまが私たちと一緒にいるなら、なぜ嵐が私たちに向かってくるのか?」嵐はよく私たちを吹き飛ばします。なぜなら、この世界が、あるべき姿にないからです。病気の嵐、苦しみの嵐、不確実な嵐、混沌、混乱の嵐、そしてアダムの罪による死。しかし、22節でなんと言っていたか覚えていますか?「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ行かせ」弟子たちを向こう岸に行かせるために舟に乗せたのはイエスさまでした。イエスさまは嵐を避けて、ではなく、嵐の中を通って導かれていました。では次のポイントを見ていきましょう。

2.私たちの信仰を溺れさせる恐れ

25~28節
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペテロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペテロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ。」

25節を見てください。「夜が明けるころ」(午前3時から6時の間を指します) イエスは弟子たちの所に行かれた。湖の上を歩いて。イエスは、私たちにはどうにもできない水のトラブルを超えて、彼が支配されていることを現されました。イエスさまは、祈っている時、弟子たちが困ったことになっていることを知っていました。しかし、イエスは急ぎませんでした。イエスは彼のタイミングで来ました。「夜が明けるころ」イエスさまは、弟子たちに、時間を超えて、水、太陽、星、宇宙、海を超えて自分が支配しておられることを弟子たちにここで見せています。ここで私たちが見るのは、自分の力ではもう何もできなくて困っている弟子たちです。湖の真ん中で、この世的な安全は剥ぎ取られ、彼らの全ての限界に達しました。前に私が言ったように、私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心が本当に何を信頼しているかが表れます。私たちを取り巻く難しい状況の波は、私たちがコントロールしているのではなく、イエスさまだということを思い出させてくれます!

では、弟子たちはどのように応答したのでしょう?26節では、彼らはおびえ、「幽霊だ!」と言った、とあります。そして恐怖のあまり叫び声を上げました。確かに、夜中の海の上を歩いているイエスさまを見たら、ちょっと怖くなりますよね?しかし、27節では、イエスは”すぐに”話しかけられた、とあります。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスさまが、嵐を鎮める前に、弟子たちの恐れを鎮めているのが分かりますか?私たちが嵐の真ん中で必要なのは、イエスさまが一緒にいるという慰めです!イエスさまは言いました。「わたしだ。自然を超えて支配しているわたしだ。恐ることはない。」

Q:質問です。あなたは、正しいことを恐れていますか?弟子たちは、ここで幽霊を恐れました。しかし、恐れられるべきは、水をも支配する方です。それでも、イエスさまは、まず彼らを気にかけ、声をかけました。すごくないですか?神を恐れることは、トラを恐れるのとは違います。もちろんトラの近くに行くことは危険です。しかし、きよい神さまから離れることはもっと危険です。トラから身を守るには、虎から逃げることです。しかしきよい神さまから身を守る方法は、神さまに身を近づけることです。これが、27節でイエスさまがしたことです。まず弟子たちの所へ来て、落ち着かせ、安心させ、間違った恐れを抱いていることを正しました。イエスは、「安心しなさい。わたしだ。(神であるわたしだ。水を支配しその上を歩けるわたしだよ。)恐れないで。」いいですか、イエスさまは、この苦しみのある世界に来るために人間の姿になってくれた神さまです。罪がもたらした混沌や、混乱の中に入ってこられました。風や嵐や海が私たちに向かって吹き荒れる壊れた世界にこられました。彼は私たちのために嵐を切り抜けるために来られました。言い換えると、イエスさまがどんな方であるかという私たちの理解は、人生が晴れていて明るい時だけではなく、暗い嵐の中でさえ、豊かになっていくということです。そして28節でペテロはイエスさまに答えます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」”わたしに命令して。。。” あなたは、神さまの命令に、このように従順ですか?最近の時代の人々は、神さまに従ったら個人的な自由を失ってしまうと考えます。彼らは、そのような”要求してくる神”が彼らの個人的自由を脅かすと思い込んでいます。しかし29節で、ペテロは文字通り、”水の上を歩き”ました。ここでの”歩く”という言葉は、”動き”を意味します。静かなのではありません。本当の信仰はアクティブなものです。神の御言葉に対して”行動する”ことです。たとえ、リスクを伴うことだとしても、それがあなたの人生に犠牲を払うことだとしても、です。信仰と従順さは切っても切れない関係です。見てください、ペテロは実際、舟から降りました。彼は未知で、馴染みのない”水”への一歩を踏み出したのです。人間が水の上に一歩を踏み出して沈まないなんて馬鹿げていると思いませんか?しかし、神さまに従うということは、時にそういうことなのです。もし、私たちが完全に理解できることにだけ従っているとしたら、それは信仰ではありません。じゃあ、キリスト教って、盲目の信仰なの?違います!信仰は合理的なものです。水を支配しておられる力強い神に従いたいと思える合理的なものなのです。しかし、それは屈辱的で不快でもありました。他の弟子たちがペテロが水の上に足を踏み出すのを見ていたからです。神さまに従うとは、時に、他の人々の目から見ると馬鹿げているように見えることがあります。ペテロの頭によぎったことを想像できるのではないでしょうか?”もし失敗したらどうしよう?” ”もし、あいつらに自分の信仰をばかにされたら?” ”失敗しても神さまは受け入れてくれるだろうか?” ”もし健康と仕事を失ったら?””もし沈んで、恐怖の中溺れたら?””誰が将来、わたしを気にかけてくれる?” もしかしたら、あなたもこのような思いを持ったことがあるかもしれません。しかし、ペテロは、それでもイエスさまに従いました!さて、ペテロが従ったことは、完璧だったでしょうか? 全然そんなことはありませんでした!それが、ここで神さまが私たちに見てほしいことです。

30節では「しかし、強い風に気がついたので怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ」とあります。ペテロはイエスさまから目を離したほんの一瞬で沈み始めました。私たちの信仰は、水のトラブルを通るのに十分ではありません。クリスチャンの信仰は、私たちのもろさや弱さを隠すのではなく、私たちの不完全さ、人間さを表します。

分かりますか?ペテロはイエスさまを見ていた時は問題なく水の上を歩いていました。信仰は、単純にイエスさまを見ているということです。しかし、ペテロが強い風を見て、イエスさまから目を離した時に、怖くなったのです!もしあなたの信仰が、イエスさまではない他の物にあるのなら、いつも麻痺した恐れの中に生きていることになります。テレビでニュースを見る時、日々、心の中で恐れが大きくなることを感じます。どんな時でも、イエスさまから目を離してしまい、自分の周りの風の変化を見ると、恐れに圧倒されます。私たちのコントロールを超えた状況は、私たちの心の中にある、コントロールしたい欲求の偶像を見せられます。ここで、私たちは、経済、産業、社会的安全、健康、病気、そして死でさえ、私たちに向かってくるこれらの”風”を私たちはコントロールできないという現実にまた直面します。私たちが、ソーシャル・ディスタンスを強いられる時、ついに、自分の落胆している心の偶像に直面することに追い詰められます。偶像は、最終的に私たちを不安、混乱、恐れの海に溺れさせます。じゃあ、どこで私たちは引き返せるのでしょう?どうしたらいいのでしょう?どこを見ればいいのでしょう?30節でペテロは、「主よ、助けてください」と叫んだ、とあります。ペテロは救いのために叫んだのです!私たちが絶望している時に、祈りを聞いてくださる唯一の神に助けを求めて良いのです!なぜなら、私たちの弱さ、繊細さの中で、神さまが私たちに手を差し伸べてくださるからです!では最後のポイントを見ましょう。

3.私たちの信仰を支えている、全てを支配しておられる御手

31-36節
「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」

イエスさまはペテロにどう応答しましたか?二つのことが見れます。31節の最初で、「イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえた」とあります。私たちをゴールラインに連れて行くのは、自分の力での信仰ではなく、イエスさまの誠実な御手なのです。イエスさまにある信仰は、あなたの信仰がどれほど強いかではなく、イエスさまがどれほど強くあなたを握っているか、なのです。イエスさまは、すぐにペテロに手を伸ばして捕まえました。イエスさまはあなたを素早く捕まえます。イエスさまはあなたを手放しません。イエスさまは恵みによってあなたのところに降りてこられたのです。そして、全てを支配しておられる御手であなたを引き上げてくれます。そして旅の最後の最後まで導いてくれます。しかしここでもう一つ学べることは、31節の後半です。弟子訓練の瞬間ですよね。イエスさまがペテロに聞いた質問です。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」小さい信仰でペテロは不可能に向かって少しの間歩きました。しかし、疑い始めたとき、イエスさまから目をそらしました。だから、イエスさまはこう聞いたのです。「なんで疑ったの?」表面的に答えるなら、こうです。「えっと。。。風が吹いてて、怖くなったからです。」違います。聞きたいことは、”なぜ”疑ったのか?で、何があなたに疑いを与えたか、ではありません!

あなたがクリスチャンなら、あなたの”疑い”を”疑う”ことは大切です。水の上を歩くという可能性を疑うことだけではありません。あなたは、キリスト教の奇跡的事実についてあなたの結論と推測の元は何かを考え、あなた自身の中にある疑いが何なのかよく考える必要があります。ここでイエスはペテロの疑いについてこう聞きました。「何で、疑ったの?」そして32節で、「2人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」のです。嵐は、イエスさまがペテロに手を差し伸べる前には静まりませんでした。イエスさまがペテロを捕まえ、彼に質問をした後に静まったのです。そして33節では、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」とあります。

いいですか、あなたは、毎日、嵐のど真ん中でイエスさまを賛美して過ごすか、もしくは恐れの中で生きて行くことができます。何であれ、私たちが愛着を持っている物が、イエスさまの内にあるものではないなら、私たちは、恐れ、心配、疑いに麻痺された状態になります。しかし、海の上を歩く方、風と海を静めることのできる方、力強い神の子が私たちと共にいます。恵みによって私たちを引き上げるために来られました。少し前で、イエスさまが最初の嵐を静めたとき、(8章27節)弟子たちは、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえを従うではないか。」と言いました。しかし今回は33節、『本当に、あなたは神の子です!』と言いました。やっと、イエスさまがどういうお方であるかを理解し始めたのです!

34節の言葉を注意深く見てください。「一行は湖を渡り」この言葉がとても重要なのが分かりますか?22節では、イエスは弟子たちを先に向こう岸へ行かせました。ここでは、「湖を渡り」とあります。どこを渡ったのでしょう?35節では、ゲネサレトという土地へ渡ったと書いてあります。いいですか、イエスさまが来る700年前に、イザヤ書43:2で、神さまは預言者を通してこう語っています。「水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。。。」旧約聖書で、モーセは紅海を渡る時、弟子たちの祖先たちを導きました。しかし海の上を歩き、弟子たちを湖の向こうへ渡らせたイエスさまは、モーセよりも偉大です。そして、この時からそれほどの日数も経たないうちに、イエスさまが園で再び祈るのを見ます。そこでイエスさまは弟子たちにこう言いました。

マタイ26:38-39

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」

イエスさまは、とても悲しいとはどういうことであるかを理解していました。彼は、「私の魂は、死にそうなほどとても悲しんでいる」と言いました。イエスさまは、恐れの中で生きることがどういうことか分かっていました。彼は、神の裁きを畏れて弱さを感じていました。イエスさまは、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と言いました。分かりますか?イエスさまは、私たちを裁きに来たのではなく、私たちに対しての神の裁きを代わりに受けに来てくださったのです。旧約聖書で出てくるヨナは、嵐の中にいました。なぜなら彼は神に従わなかったからです。イエスさまは、私たちの不従順さに対する神の裁きを受けにきてくれたのです。私たちが最大の嵐を切る抜けるために、私たちに恵みをもたらすために、十字架にかかってくださったのです。私たちが飲むべきだった裁きの杯を代わりに飲んでくださったのです。私たちが赦されるために裁かれたのです。十字架の上で最大の苦痛に耐えてくださったのです。そして私たちの恐れを信仰に変えるために来てくださったのです。だから、あなたがキリストの内にあるなら、あなたは文字どおり、死の岸から命の岸へと渡ったのです。もしイエスさまがあなたのために最大の嵐に耐えてくださったとしたら、明日何が起こっても直面できます。人生があなたにもたらすどんなことも、直面できるのです。

だから、35-36節で「それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」とあります。人々は、イエスさまが嵐を通って、彼らを癒しにいたことを知っていたでしょうか?イエスさまは、私たちを癒すために大きな嵐を耐えられました。私たちを癒すために苦しまれました。ここでの癒しは、将来、イエスさまが全ての人を癒し、全てを新しくする神の国がくることのしるしです。いつの日か、イエスさまは戻ってきて、世界を癒し、この世界があるべき姿になるように回復させます。そしてイエスさまが戻る時、私たちを湖の向こう岸へと連れて行ってくれるのです。そこは、病気も、死もない命に溢れた場所です。

恐れでいっぱいの弱い弟子たちは、最終的に喜びにあふれ、神のひとり子、イエスさまを賛美しました。だから、今週、毎日の生活の中でイエスさまを賛美しましょう。イエスさまが、私たちが受けるべきだった最大の裁きという嵐を耐えてくださったというこの真実の中で勇気を持ちましょう。そしてこの時期、神さまと2人で過ごす祈りの中で、私たち自身や私たちの周りの人々、世界のために祈りましょう。神さまは、私たちが祈りの中でへり下る時、私たちの祈りを聞き、私たちの国を癒してくださいます。

Sermon Video in English
Walking By Faith When Drowning in Fear | Corona Crisis Response | Matthew 14: 22- 36 | Pastor Joey Zorina

鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

2020年4月12日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

今日、私たちがイースターをお祝いするこの時、コロナウィルスの感染拡大によって、多くの皆さんが、ソーシャル・ディスタンスで、家で過ごしていると思います。面白いことに、今日は、世界で最初のイースターの日の夜に、恐れから鍵をかけ、家の中にいた初期の弟子たちのことを見ていきます。今日のタイトルは、ヨハネの20:19ー29より「鍵がかかった扉と空っぽの墓」です。3つのポイントは、1. 閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ 2. 私たちを使命へと準備させるキリストの平安 3. 不信仰を信仰に変えるキリストの復活、です。

1.閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ

19~20節
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

ここで、弟子たちは、鍵をかけたドアの後ろで恐れを抱いていましたよね?イエスさまが、金曜日に殺されて、その3日後の日曜日の夜の話です。19節に、「日曜日の夜に、ユダヤ人を恐れて、弟子たちは家の中で鍵をかけていた」とあります。(ユダヤ人の宗教的指導者たちのことです)なんでユダヤ人の宗教的指導者を恐れていたのでしょう? イエスさまの伝道活動を、いつも宗教的リーダーたちは嫌っていました。決まりごとを守るだけの「宗教」は、平安ではなく、絶えない不安をもたらしていました。それは、恐れを基にした宗教でした。人々にたくさんの不安を与えました。イエスさまに魅力を感じていても、7章13節にあるように、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」のです。ユダヤ人たちの、恐れが基になって、決まりだけを重視した、律法的な宗教は、霊的に抑圧的なものでした。

公に、イエスさま側の人間だと言うことは、公共での屈辱と処刑を味わうことでした。今日の世界でも多くの場所でこのようなことが起こっています。ここでの弟子たちは、たくさんの恐れを抱いていました。人間を恐れました。恥を恐れました。そしてユダヤ人に殺されるかもしれないと、死を恐れました。あなたに質問があります。あなたが一番恐れていることは何ですか?その大きな恐れは、あなたを奴隷のように縛り付けていますか?「恐れ」と言う言葉に注目してください。それは、「大きな苦痛、差し迫った痛みに対する強い懸念により起こるもの、危険、悪」などを意味します。あなたの最大の恐れは、あなたに何を訴えかけてきますか?いいですか、あなたの恐れは、あなたの心の中の偶像(神さまよりも愛していることや優位にしていること)を示しています!コロナウィルスのこの状況を目前にして、ほとんどの人々は当然、健康、仕事、家族、友達を失うことを恐れます。しかし、どれほどの恐れでしょうか?それは私たちを無力にさせていますか?私たちの多くは、自宅の中で過ごす時、未知のものへの恐れに葛藤する姿を見るでしょう。いいですか、私たちの恐れの根底にあるものは、死への恐れなのです。なぜなら、死は、人生の終わりだと知っているからです。死は誰にでもやってきます。世界で一番貧しい人にも、世界で一番お金持ちの人にも、一般人にも、一番有名な人にも!死は、その時に違いはあっても、この世で一番平等に起こるものです。では、死が、あなたの家のドアを叩いたら、どうしますか?弟子たちは、その日曜日の夜、恐れおののいて鍵をかけた家の中にいました。イエスさまが彼らのところに来ました。19節の、後半には、イエスが来て真ん中に立ち、とあります。そして、「あなたがたに平安があるように」と言われました。イエスさまは、弟子たちにとって、最大の恐れを感じ、一番弱さを感じる時に来てくださいました。19章で死んだはずなのに、そのお墓が今は空っぽになっている、その方が現れたのです。気付きましたか?イエスさまは、超自然的な力で鍵のかかったドアを通り越して来たのです。なぜなら、死でさえも、イエスさまに鍵をかけ、抑えておくことはできなかったからです。そして、ここでイエスさまは、彼を見捨てた弟子たちを懲らしめに来たのではありません。思い出してください。イエスさまが捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マルコ14:50)

しかし、ここでイエスさまは、恐怖に震える弟子たちのところに、彼がよみがえったことを証明しに来られました。何と誠実で、恵み深い友でしょう!20節では、「手とわき腹とをお見せになった。」とあります。いいですか、キリストの復活は歴史的な事です。イエスさまが十字架で死なれた後、19章34節では「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。」とあります。わき腹を刺すとは、イエスが本当に死んだかどうかを確かめるためにした行動でした。しかし、ここで、イエスは弟子たちに自分が復活したことを証明するために、穴が空いた手とわき腹を見せてくれたのです。霊的な話ではなく、実際に身体に穴が空いていました。イエスさまは、本当に死からよみがえり、そしてこれは、これから復活を証明していく始まりでした。

では、恐れでいっぱいの弟子たちはどのように応答したでしょうか?「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。死を恐れて鍵をかけて家の中にいたこの弟子たちは、キリストの復活を目の当たりにしたのです!そして彼らは、よみがえったキリストをみて「喜んだ」のです。いいですか、ユダヤ人の、律法的な宗教は絶えない恐れをもたらし、死をもたらしました。しかし、よみがえったキリストは、恐れを喜びに変えにきてくれたのです。イエスさまは、私たちの最大の恐れを追放し、平安と喜びを与えてくれました。では次のポイントを見ていきましょう。

2.私たちを使命へと準備させるキリストの平安

21-23節
「21イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

21節をよく見てください。イエスはもう一度、「あなたがたに平和があるように。」と言われました。19節で、すでに「あなたがたに平安があるように」と言っておられます。そしてここでイエスさまはもう一度言いました。これ、重要ですよね?「あなたがたに平安があるように」と言われました。ここでの平安、という言葉の意味は、神さまと人間の間の平和な関係、ということです。ここで質問です。

Q. あなたは今日、神さまとの関係に平安がありますか?あなたは、今、神さまと平安を持つことができます。なぜなら、イエスさまが復活したからです。イエスさまは「あなたがたに平安があるように。父である神がわたしをあなたのところへ遣わしたのだ。」と言いました。イエスさまは、罪、崩壊、苦しみのある世界へと、父なる神様によって遣わされました。神さまとの関係を正しく戻すために来てくれたのです。有名な3章16節の聖書箇所を覚えていますか?「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そしてここで弟子たちにこう言いました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と。すごくないですか?イエスさまは、弱くて、臆病で、恐れに満ちた弟子たちを鍵をかけたドアを超えて、世界に遣わそうとしたのです。言い換えると、このソーシャル·ディスタンシングの時は、あなたの使命のための準備期間です。どれだけ信仰が大きいかで使命への資格が与えられるということではありません。あなたを使命へと準備させるのに、キリストは十分なのです。

三位一体のそれぞれの神の働き全てが関わっていることに気づいてください。父が、ご自身と罪びとたちとの関係を回復させるために、イエスさまを遣わし、イエスさまが、弟子たちを送り出そうとし(21節)、そして彼らに、彼らの人生と使命のために聖霊を与えました。(22節)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 』」イエスは弟子たちに平安を語り、彼らに息を吹きかけ、聖霊を受け取りなさい。と言われました。これは、さかのぼって、創世記2:7での世界の創造を思い起こされますよね?

神さまがアダムにどうやって命を与えたか覚えていますか?神さまがアダムに息を吹きかけたとき、アダムは生きた魂を持ちました。しかし、ここでは、キリストの息が、弟子たちに新しい人生を与えました。驚きです!!誰でも、キリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。(2コリント5:17)そして弟子たちは、ペンテコスト(聖霊降臨)の時にもっと聖霊の力を受けたのです。(使徒)それは、聖霊に満たされることなしでは、私たちは効果的な証人にはなれないのです。

では、どうやってキリストの平安と聖霊を持つことができるのでしょうか?ただ単純に受け取るだけです。なぜなら、イエスが、「平安があるように」と後すぐに「聖霊を受けなさい」と言っておられるからです。「受ける(Recieve)」とは恵みの言葉ですよね?キリストの平安はただ与えられ、受け取るものです。何かをしたから、得るものではないのです。聖霊は、ただ与えられ、受け取るものです。何かをしたからもらえるものではありません。いいですか、恐れによって無力になった状態は、あなたの息を取り去ります。死への恐れは、あなたの息を取り去ります。「死」そのものは、文字通り全ての息を絶やします。しかし、イエスさまは、人生に命を与えるために、平安を与えるために来られました。あなたの恐れを、落ち着かせる人生と平安が与えられ、困難な世界を乗り越えられます。14章27節では、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」とあります。分かりますか?キリストの平安は、慰めと、保証をもたらします。そして聖霊は、私たちを福音の使命へと準備させます。23節では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とあります。それは、とんでもない特権で、当然の責任です!ここでイエスさまは、弟子たちに人々の罪を赦す力があると言っているのではありません。それよりむしろ、救いを受け取る人は、赦されるということです。一方で、差し出された救いを受け取らない人は、赦されないままになるのです。とんでもないですね!赦されない状態のままにいるということは、神さまとの間に平安がないということです。罪を赦されないままの状態でいるとは、永遠に本当の平安が私たちの内にないということです。しかし、良いお知らせは、イエスさまが本当の平安をもたらすために来てくれたことです。いいですか、恐れに満ちた、弱い弟子たちは、聖霊の力により新しい人生、平安、力を持って遣わされていくのです。

では最後のポイントです。

3.不信仰を信仰に変えるキリストの復活

24-29節
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

さて、なぜイエスさまが来られた時、トマスは他の弟子たちと一緒にいなかたのでしょう?24節では、「イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった」とだけ書いてあり、なぜいなかったのかその理由は書かれていません。私たちが知っている情報の全ては、トマスは一緒にいなかった、ということです。今日でも、誰にも頼らないような、非常に独立した精神を持っているように見えるけれども、それは、誰かに対して責任を負うこと、お互いの人生の責任を負い合わない、そういう人もいます。しかし、ここでトマスを見て、他の弟子たちと一緒にいなければ、信仰が深まっていかないことが分かりますよね?25節では、他の弟子たちが、トマスに「わたしたちは主を見た」と言った。とあります。しかし、トマスは「いやいや、自分のこの目で、あの方の手に釘の跡を見るまで、この指を釘跡に入れてみるまで、この手をそのわき腹に入れてみるまで絶対に信じない。」と言いました。

トマスはこの時、実際に復活したイエスさまに会った、たくさんの人たちから、話を聞きました。それでも、彼は証拠を求めました。さて、皆さんは、リチャード・ドーキンスという有名な無神論者を知っていますか?リチャードは、こう言いました。「トマスは、科学者の守護聖人だ。」「宗教的信仰は、証拠がないというだけのことではない。その証拠を求めない信仰は、屋上から叫ぶような、プライドと喜びだ。なぜ他のクリスチャンは、トマスの疑いに対して批判的なのか?他の弟子たちにとっては、証拠が不十分でも、信仰で十分だったから、美しい模範として見られている。一方で、疑うトマスは証拠を求めた。彼は科学者の聖人であるべきだ。」

他の弟子たちに証拠が不十分だった、というのは真実でしょうか?トマスだけが、証拠を求めていたのでしょうか?面白いのは、20章1節で、全ての弟子たちは、マグダラのマリアの、墓の中にイエスの遺体がないという話から、現場に行って、実際に本当にないことを見て、信じました。例えば、6-8節で、ヨハネとペテロは、イエスを包んでいたはずの亜麻布が置かれているのを見ました。これは証拠の一つです。しかし、9節で、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」とあります。旧約聖書の全てはイエスさまを指しているからです。16節で、マグダラのマリアでさえも、イエスさまを目の前にして話し、それがイエスさまだと気付いたのは、イエスさまが彼女の名前を呼んだ時でした。そして、ここで、他の弟子たちも来て、そしてトマスに言いました。「私たちは、主を見た!」それは視覚的証拠です。彼らは、イエスを見たのです。それは、証拠と、視覚的経験を通してキリストが復活したという信仰を、弟子たち全員が持ったということです。後に、使徒パウロは1コリント15:6で、イエスは「500人以上もの人たちに同時に現れた」と記しています。500人が同じ瞬間にイエスさまを見たのです。これも視覚的経験です。

だから、トマスも、ある意味、別に他の弟子たちとそんなに変わりはないですよね?彼も、他の弟子たちが見たように、見たかったのです。科学的発見の過程は、神様からの贈り物です。26節では「弟子たちはまた家の中におり。。。」とあります。そして、その時はトマスも一緒にいました。ドアに鍵がかかっていたのに、イエスさまは彼らの真ん中に現れました。そして、「平安があなたがたにあるように。」と言いました。イエスさまは、自ら来てくれたのです。自ら、弟子たちが自分を発見するように、来てくれたのです。来て、ご自身を明らかにしてくださったのです。来て、弟子たちの真ん中に立ってくれたのです。イエスさまは、時間や空間を超える方です。イエスさまは、他の弟子たちに与えたように、トマスにも福音の平安を与えに来たのです。分かりますか?他の弟子たちに、復活した証拠を見せたように、トマスにもその証拠を見せに来てくれたのです。27節で、「あなたの指をここに当ててごらん。私の手を見て。そしてわたしのわき腹にあなたの手を入れてごらん。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。私たちの心に、どれほど、信じない心が何層にも重なっているのが分かりますか?イエスさまにある信仰の成長は、過程であり、旅なのです!トマスは、疑ったのではなく、信じなかったのです。そして、イエスさまは、その信じない心を信仰へと変えに来てくださったのです。

そしてついに、トマスは28節でこう言います。「私の主、私の神よ!」トマスは、イエスは、復活したキリストであり、神の一人子だと告白しました。29節ではイエスさまはなんと言いましたか?「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスさまのこの問いかけは、批判して責めているのではありません。弟子たちを育てるための、優しい質問でした。トマスを教え、導き、トマスが成長した瞬間でした。イエスさまが言った、「見ないのに信じる人は幸いだ。」という意味は、イエスさまは、すぐに天に昇っていかれるから、後の人々に、この時弟子たちに会ったようには会えないけれども、福音を聞いて、イエスさまを伝える話、メッセージを聞いてイエスさまを信じる人々のことを指していました。

だから、今日、もしあなたがまだキリストを見ていないけど、イエスさまを信じているなら、あなたのその信仰は神様からのギフトです。あなたが、イエスを信じる者であることに不思議と驚きを感じたことはありませんか?あなたが、信じる者であること、クリスチャンであるということは、奇跡なのです!ローマ10:17では、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。もしあなたが、信仰を強めたいなら、あなたがすることはべき必要な全ては、毎日、キリストの言葉を聞くことです。イエスさまは、信仰は、理屈以下ではなく、理屈以上のものだと言います。信仰は、新しい目でイエスさまを見ることです。新しい目、あなたの心の目で、です。トマスは、発見の過程の中で、彼一人での力では科学的結論に到達することができませんでした。だから、イエスさまが彼のところに来て、言ったのです。「わたしの手を見てなさい。あなたの手をわたしに当てなさい。」

この瞬間、トマスの目はついに開かれました。彼はイエスに「私の主、私の神!」と言いました。今日、あなたがこのメッセージを見て聞いていて、まだイエスにある信仰を公に告白していないなら、告白することを励ましたいです。イエスさまは、トマスに言ったように、あなたにもこう言われています。「見ないのに信じる人は、幸いです。」信じるということは、キリストを見るということです。あなたはイエスを、あなたの心の目で、信仰の目で見るのです!これが、イエスさまが言われている、「祝福された、幸せな」信仰です。

イエスさまは、平安の祝福とともに来られました。なぜなら彼ご自身が私たちのために呪いを受けられたからです。私たちが信仰によって祝福されているのは、私たちの不信仰のために、イエスさまが呪われたからです。私たちが死ぬべき罪のために、イエスさまは十字架にかけられました。何にも罪を犯していない、世界で一番きよい手は、十字架の上で、釘を打たれました。私たちのために。私たちの手が、他の人々を助け、仕えることができるようにするために。イエスさまのわき腹は、私たちが癒されるために刺されました。そして釘を打たれた彼の手は、私たちを前進させるため、導いてくれます。イエスさまは、私たちが生きるため、2度ど、堕落を味わうことがないようにするため、死から復活されました。地獄のどんなドアも私たちを閉じ込め、鍵をかけることはできません。死は、私たちに対してその力を失ったのです。いつか、イエスさまは再び来られ、私たちの卑しい身体を彼の栄光の身体のように変えてくださるのです。あなたが病気だったり、身体的な痛みで苦しんでいたら、いつかイエスさまは、あなたに二度とその痛みのない身体に造り変えてくださるのです。

今日、イエスを見ましょう。イエスを受けましょう。そして、イエスが戻ってくることを待ち望みましょう!その日はすぐにやってきます!

Sermon Video in English
Locked Doors And The Empty Tomb | Covid-19 Series | John 20: 19- 29

どうしたら聖書を読むのが面倒な事ではなく、祝福の宴となるのか

This article was first published on Redeemer City to City blog (in English HERE).

幼少時代、私は母にスプーンでご飯を食べさせてもらっていました。今は太平洋を隔てて暮らしているため家族で食事を取る事は滅多にありませんが、母にスプーンで食べさせてもらう必要は無くなりました。子供時代のある時を境に、自分で食べられるようになったからです。

私たちには肉体的な空腹と同様に、霊的な空腹も存在します。神と共に歩むには、日々の霊的に健全な食生活が必要です。生活、仕事、宣教及び奉仕活動において、良い霊的食物を食べずに自分自身の力により頼むことは、燃料の入っていない車を運転するようなものです。燃料が無くても下り坂なら少しは進むかもしれません。ですが、上り坂や平らな道では、エンジンに火をつける燃料が無ければ進むことはできません。心の中に神の言葉の種を植えなければ、良い実を結ぶ事はできないのです。

日曜日の説教はこの空腹を満たすために必要不可欠ですが、私たち自身でも聖書の御言葉を噛みしめ、栄養を摂る必要があります。赤ちゃんは空腹時に誰かに食べさせてもらう必要があります。そして成長すると自分で食べられるようになります。

それでは、私たちはどのように霊的な空腹に気づき、日々神の恵みの食卓で祝宴を持つ事ができるでしょうか?いくつか助けとなる原則を紹介したいと思います。

  1. 恵みに気づく

聖書を読むのが義務的で重荷に感じるような環境の教会で育った人もいるでしょう。それがまるで業務のように。今この記事を読んでいる人の中にも、今日そのように感じた人がいるのではないでしょうか。私自身の日記にも、以前は聖書を読む事が面倒に感じていた事が書かれていましたー恵みによる動機から聖書を読むという、新しい理解を得るまでは。D.A.カーソンは霊的鍛錬を追い求める努力の必要性について、このように記しています。

「人は自然に聖さへと流される事は無い。恵みに基づく努力が無ければ、人は敬虔さ、祈り、聖書への従順、信仰、主への喜びへと引き寄せられる事は無い。」(For the Love of God, Vol. 2)

それはつまり、聖書を読むのは偶然には起こらないという事です。集中した努力が無ければ、私たちは霊的に中途半端な栄養状態になります。毎日ジャンクフードを食べて生活する事を想像できますか?霊的なジャンクフードも同じくらい不健康です。心は冷え切ってしまい、罪に惑わされてかたくなになってしまいます(ヘブライ3:13)。

しかし、私たちの多くが継続して聖書を読む事に失敗してしまいますーそして多くの人がその事に罪悪感を抱きます。ですが良い知らせがあります。神は私たちが聖書を読めないからといって私たちを愛さない訳でも、聖書を読む事でより愛される訳でもありません。イエスは私たちが生きる事のできなかった人生を生きられました。イエスは神の律法を黙想し、それを破る事はありませんでした。イエスこそが詩編1:1,2で描写されている、「主のおしえを喜びとし、昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」なのです。イエスの救いにある恵みは、私たちに新しい食欲を与えます。霊的な幼児食から、さらに求めるようにと。私たちに新しい欲求、好み、愛を持つ新しい心を与え、イエスが成された業への愛を与えて下さいます。そのため、他の良い習慣と同様に、聖書に黙想する事は時間をかけて築かれる、恵みによる習慣なのです。恵みを認識しそれに基づき行動する事は、聖書を学ぶ喜びへと導きます。

2. 聖書箇所をゆっくりと祈りながら読む

私は朝目覚めると、今日取り組むべき課題との格闘へ向けて心の準備が整っています。しかし、恵みによる努力と自分自身の努力には違いがあります。心の内面は活動的で、常に休む事なく忙しさに追われ、集中力を欠いています。

フランスの数学的であり哲学者でもあるブレーズ・パスカルはこのように述べています。「人が抱える問題の多くは、人が一人で静かに部屋にいられない事から生じる」

パスカルによると、私たちは沈黙や退屈さを恐れるために、心の奥深くにある欲求を埋めるものを絶えず追い求めてしまうそうです。最近では、前日の夜遅くに同僚から送られてきた「急ぎの」メールを確認する事が私たちの普通の状態となっています。iPhoneやiPad、パソコンを確認するのが、私たちが朝まず行う事になっているのではないのでしょうか。

心は絶えず何かを求めていますー考察やアイデア、人々、場所など。頭の中は神以外のものを礼拝しようと常に何かを探しています。これは意志の強さと努力により修正できるような問題ではありません。忙しさに追われない、祈りの時間を通して、私たちの愛情が呼び覚まされる必要があります。それは神に必要を求めるだけの祈りではありません。神を礼拝する祈りです。

聖書朗読と祈りのために時間が裂けるよう、意図的にペースを緩める事はとても重要です。そうすれば、祈りは私たちの考えを静め、聖書の神に私たちの心の中心を置く助けとなるでしょう。時には、それは聖書箇所を神に祈り返す事でもありますー焦らず、賛美をもって、賞賛と感謝で、全ての聖書箇所を味わいながら(まるで神の言葉を味わうかのようにーそしてその通りなのです)。私はこれを神の御言葉に呼吸すると呼んでいます、なぜなら聖書は神の霊感(息)によるものだからです(2テモテ3:16)。

このような静まる時間を持つ時、私の内にある休まらない心の声が大きくなり、自分の考えを静める必要があると認識するのです。私たちの心はせわしなく、整えられる必要があります。その過程でさえ、祈りの始まりとなります。また、昔の聖人たちも日々の業務や課題に取り組む前に、神の御前で心を静める事の大切さを学んでいます。「講談のプリンス」とも称されたチャールズ・スポルジョンはかつてこのように問いかけました。「毎朝何時に起床していますか?15分早く起きる事さえ困難ですか?もちろんできるでしょう!夕飯にかける時間はどの程度ですか?長時間ですね。その後はきっとつまらない読み物を読むのでしょう。では、なぜその時間を自身の魂を静め、吟味する時とできないのでしょうか。キリスト教徒は神の御前での神聖な黙想の時間を持たない限り、神により頼む姿勢にはならないでしょう。神を最も知る人は、神に最も黙想する人です。神の恵みの教義を最も認識する人は、この地の物が届かなくなる程に黙想する人です。」(Meditation on God: September 2nd, 1900)

不運にも、つまらない読み物は増加し、今日では毎朝受信トレイを浸食し、私たちの祈りを妨げます。

カーソンが指摘したように、聖書を読むことは意図的な祈りを伴います。なぜなら聖書は神の霊感による、超自然的なものだからです。聖書を歴史的・文学的観点から理解し、合理的に理解しようと学ぶ事は可能です。しかし霊的な気づきが与えられなければ、私たちへ変化や感動がもたらされる事はありません。パウロはエペソの教会へ、彼らの心の目がはっきり見えるように祈りました(エペソ1:18)。詩編の作者は、気づきを求めて「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえにある奇しいことに。」(詩編119:18)と祈りました。聖書箇所を祈り、気づきを求め、そこに目を留めましょう。

3.集中した黙想により心を温める

聖書を読んだ後も、心が冷めたままの時があります。そのため、私たちは聖書を広く読むだけでなく、深く読む必要があります。意図的に長い時間をとって聖書の真実を黙想する事で、1の章、時には1つの聖書箇所や言葉でさえ、霊の働きにより心の中でダイアモンドのように光輝く事があります。パウロはテモテにこのように言いました「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。」(2テモテ2:7)。

聖書は頭で理解するだけでなく、心の中で感じ、経験する事ができます。聖書を読んだ後、人生における悲しみや葛藤、困難から心が解放されていたいと望みませんか?私たちの欲求に対し、恵みの教義を深く経験する方法は、スポルジョンが述べたように「この地の物が届かなくなる程に黙想する」事です。スポルジョンは続けてこう述べています。

「黙想は魂をしなやかにするー頭の中へ何かが入って来た時、それを用いる事ができるように。論議に勝つのはどのような人でしょうか?一人の時に黙想する人です。説教ができるのはどのような人でしょうか?遊び歩き、自身の心と向き合わない人ではありません。そうではなく、一人でいる時も人々に囲まれている時でも、熱心に考える人です。本を執筆し、継続的に文学を提供するのはどのような人ですか?黙想する人々です。彼らは継続的に黙想という油に浸かる事で、骨をしなやかに、足を運動に適した状態に維持しているのです。それでは、私たちの心を継続的に奉仕へ整えるため、黙想は心の運動としてどれほど重要なのでしょうか!」

福音の真理を黙想する事は、一日を通して喜びと礼拝の心を目覚めさせます。黙想こそがーゆっくりと考え、休止し、思い返し、真理に呼吸する事でー私たちは大きな報いと喜びを発見します。詩編の作者がこう言ったように。「私は大きな獲物を見つけた者のように あなたのみことばを喜びます」(詩編119:162)

ですから、神の律法に黙想し完全な人生を歩んだキリストの恵みの上に、私たちの希望があります。私たちは神への従順と祈りの生活において、神の基準を満たす事に失敗しましたが、イエスがその基準を満たされました。御言葉を通してイエスに近づく中で、私たちの霊的な食欲が呼び覚まされ、イエスへの大きな愛が新しく与えられます。イエスを日々求める事で、私たちの心は再び、イエス自身と彼が成された業への驚きと感嘆に満たされるのです。

ジョーイゾリナ牧師。

Sermon Video Mini-Series | Corona and Christ

Corona Crisis Response | Matthew 14: 22- 36 | Pastor Joey Zorina |

In this episode of our mini-series we turn to Matthew 14: 22- 36 where we follow 3 main insights: a) The renewal of faith we all need. b) The fear that drowns our faith c) The sovereign hand that holds our faith.

Rom. 8: 31- 39 | Pastor Joey Zorina | The Love of Christ in Turbulent Times

In this episode of our minis-series we turn to Romans 8: 31-39 where we follow 3 main insights: a) The God who is for us b) The danger that threatens us c) The love of Christ that secures us.

Video Streamed on Sunday March 29th | Youtube

March 22 Sunday Sermon: Manuscript

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Sermon Manuscript

Note: Due to technical difficulty the sermon for March 22 was not recorded.

Theme: God’s Goodness in Uncertain Times (Romans 8: 26--30)

Intro. In light of the Covid-19 pandemic, we will continue with a mini-series from Romans 8: 26- 30. We’ll pick it up from vv. 31 to 39 next week. But today, here is a question for us: Where do we turn when a global crisis that is beyond our control hits us? How do we navigate through life in uncertain and changing times? Here in this passage, Paul writing from Corinth in the 50s AD, talks about the tension between our present suffering and the hope of future glory. So, from our text, here are 3 insights we’re going to follow together. a) The Spirit’s help in our weakness. b) The good that God works in our suffering. c) The future glory that awaits us in Christ.

a) The Spirit’s help in our weakness.

26. Likewise the Spirit helps us in our weakness. For we do not know what to pray for as we ought, but the Spirit Himself intercedes for us with groanings too deep for words. 27. And He who searches hearts knows what is the mind of the Spirit, because the Spirit intercedes for the saints according to the will of God.

Q. Are you aware of the Spirit’s work in your life? Most Christians are quite familiar with God the Father, God the Son, but know very little of the Holy Spirit. From v. 1 until v. 17 Paul had been talking about the role of the Holy Spirit in the life of Christians. So here in v. 26, he says again, “Likewise the Spirit helps us in our weakness.” Paul does not mean that the Holy Spirit comes to help only when we don’t have strength. No. Christians can never live the Christian life on their own strength. And therefore they need the Spirit’s help all the time. That’s what the word weakness here means. Keep in mind, the Christians here lived in a culture where the Romans idolized strength and greatness. It was a society in which those who showed weakness were not respected. But the word weakness here means inability to restrain corrupt desires. Inability to bear trials and troubles. In other words, there is nothing Christians can do to add to their salvation, and there is nothing they can do to bear spiritual fruit on their own. And so Paul says, “the Spirit helps us in our weakness.” He helps carry a heavy load!

He wants the Roman church to know that the Spirit’s help is always present. Again, notice the weakness Paul is talking about here in v. 26. He says, “For we do not know what to pray for as we ought.” Have you ever suffered to a point that you don’t even know what you ought to pray? In times of tremendous suffering, Paul says, we do not know what to pray for as we ought. In this context, Paul is talking about how the whole creation has been suffering and groaning. In times of suffering, he says, it’s hard to pray. It’s hard to describe the pain in words, even to your friends or family members. Earlier in v. 22 Paul says the whole creation has been groaning together in the pains of childbirth until now. The image there is like a pregnant woman, laboring in childbirth pains! And in v. 23 he said, “we groan inwardly as we wait eagerly for...the redemption of our bodies.” There is a kind of suffering that is hard to express in human words, except by internal groaning. And many people feel it, we see it around us, and hear of it everyday in the news! And there is a kind of suffering that exposes more of our weakness. As C.S Lewis famously said: -

“We can ignore even pleasure. But pain insists upon being attended to. God whispers to us in our pleasures, speaks in our conscience, but shouts in our pains: it is His megaphone to rouse a deaf world”― (C.S. Lewis, The Problem of Pain).

See, pain reminds us that we are weak, that we are not in control. Pain shatters the illusion that we can be our own gods, ruling our own destinies. Suffering shatters our pride and awakens our desperate need for God! Pain insists that we listen to God’s voice!

V. 26. So Paul here says: the Spirit helps us in our weakness. He enters into our pain. He says, “the Spirit Himself intercedes for us with groanings too deep for words.” Here, the Spirit is groaning with us. He is closer than family members and closest friends in our suffering. He understands our deepest fears, frustrations and pains. In John 15: 26, the Holy Spirit is called The Helper. Someone who pleads our cause, an intercessor. And here He is pleading our case before God. He is interceding for us. He advocates for us. He comes to live inside the believer with strengthening grace. Your natural strengths can blind you to your need for reliance on the Spirit. See, if you want the Holy Spirit’s power, all you need is your weakness. Weakness shows your vulnerability. Weakness helps you realize how fragile, broken, and in need of help you are!

Notice again how Paul says: “For we do not know what to pray for as we ought.” BUT in v. 27, he says, “He who searches our hearts knows.” God searches our hearts like a searchlight. You can hide from others, but there is no hiding from God. You can hide your weakness and sins, but God searches our hearts. See, your weakness is not your enemy. It’s a channel for the Spirit’s strength. Often, in times of suffering, many people say: “What is God’s will for my life?” See, you may not know the will of God, or know how you ought to pray, but God knows the mind of the Spirit. He has sent His Spirit to help in your weakness. This is why (in v. 27) Paul says the Spirit intercedes for us according to God’s will. And so next we see:-

b) The good that God works in our suffering.

28. And we know that for those who love God all things work together for good, for those who are called according to His purpose. 29. For those whom He foreknew He also predestined to be conformed to the image of His Son, in order that He might be the firstborn among many brothers.

Remember how Paul said: “the Spirit intercedes for us according to God’s will”? What is God’s will here? Here in v. 28, Paul says, “we KNOW.” There are many things we don’t know in this world of suffering, confusion and chaos. But one thing we know for sure! We know how all of our suffering and groaning is going to turn out. Paul says, “we KNOW that for those who love God all things work together for good, for those who are called according to His purpose.” All things are going to work for good, not worse!

But who is this promise for? Paul says this promise is, “for those who love God.” That’s the first commandment. What you love more than God, the God of the Universe, is an idol- a false god. Any created thing, including ideas, that you love more than God is an idol (says Roms. 1). In times of suffering, the idols of the heart are shown to be disappointing. This is what God wants you to see. He wants you to turn from things that your heart loves more than Him. Why? Because He has called you “according to His purpose.” And because there is nothing better than God Himself.

If you’re not a Christian, you may be wondering: If God is good then why is there so much suffering in the world ? The Buddhist and Hindu answer is karma. Karma is a principle of cause and effect. According to karma, you get what you deserve based on your deeds. This cycle repeats itself. But Christianity says: God gives you what you don’t deserve. He works all things for your good even in your suffering. So why is there so much suffering in the world with a good God? If “all things work together for good” why is there so much suffering in the world with a good God? See, just because we can’t think of any reason does not mean God does not have a reason. Right here, Paul says, “We KNOW” God has a reason! What we know is that suffering is not meaningless in Christianity. God, in His infinite wisdom, is working for our good. Paul says: We KNOW there is good that God is working in our suffering. There is grace for those who are called according to His purpose. See, all things that are not good at the moment- sickness, diseases, suffering, evil, they work together for good in the end. All of those things that are working against you now, God is working for your good. And this promise is for you- “for those who love God” and for those who are called.”

Now, what does it mean to be called? Paul says in v. 29, “For those whom He foreknew He also predestined.” That word foreknew means “to know before hand.” And predestined means “to choose beforehand.” Can you imagine? God knew you before the foundations of the world? He knew you, long before the ages began. He knows everything about you, your background, your history, your deepest longings, your deepest secrets, thoughts and sins. He knew you long before you were born. And He chose you, because He loves you! Paul says, in v. 29, “For those whom He foreknew He also predestined to be conformed to the image of His Son.” See, God knew you, chose you and called you to be in His Son. So, what is the good that God is working for you? He is conforming you to the image of His Son. See, if you’re a Japanese, you’ll become a much better Japanese. You’ll get an upgrade. God will conform you into a beautiful image- into the image of His Son. He will make you new, and increasingly beautify you. Paul says, in the midst of all weakness and suffering God is working to beautify us- to look more and more like Christ. If you’re a Christian, be encouraged; your sanctification will be complete and perfect one day. Even though the image of God in us has been distorted by sin, God is calling us to Christ. That’s what Paul says here: “in order that He [Christ] might be the FIRSTBORN among the brothers.”

Do you see how the Spirit lifts up Christ (in v. 29)? Paul says, Jesus is, “the firstborn among many.” The O. T places great significance on the firstborn. It speaks of superiority in position, authority, preeminence, a special status; with double portions of inheritance. See, Jesus is “the firstborn of all creation” (in Col 1:15). He was not created by anyone, but He is the sovereign Lord over all creation. In Lk 2:7, Jesus in His incarnation is called the firstborn son of Mary. In Col. 1:18, Paul says Jesus “is the beginning [He has always been there! No one created Him. Everything else had a beginning. But Jesus didn’t! He simply is! He is THE BEGINNING] the firstborn from the dead, that in everything HE might be preeminent.” And in Rev. 1: 5, Jesus is “the firstborn of the dead, and THE Ruler of kings on earth.” Finally, He will be exalted as the Firstborn when God gathers all of us as His children to His eternal home. So, finally we see:

c) The future glory that awaits us in Christ.

30. And those whom He predestined He also called, and those whom He called He also justified, and those whom He justified He also glorified.

Notice carefully how Paul says: Those whom He predestined He also called. That’s called effectual calling. The reason we came to Christ was because God called us by His Spirit. Yes, you made many mini-decisions in your journey of coming to Christ. But it was not your decisions that brought you to Christ. It was God regenerating you, while you were dead in your tresspasses and sins. He called you from deadness to life in Christ. And Paul says: Those whom He called He also justified. And those whom He justified, finally He also glorified. Beautiful! The sequence is significant. Our salvation is a work of God’s sovereign grace. From the beginning to the end- in God’s plan of salvation, you were predestined, you were called, and you were justified. And then finally you are glorified with Christ! The word glorified there means: given the highest honor, clothed with splendor, not to be corrupted. To be transformed. To shine without fading! Look again: The implications are massive here. Jesus did not come to make sinners into moralistic people. He died and rose again to make new people, a glorified people, who are transformed into His likeness. Without sin, without sickness, diseases and limitations or weakness. He called you in weakness and one day you will achieve true greatness as you are glorified with Christ when He returns!

Notice how there is nothing that Christians contribute to their salvation here (in v. 30). It’s all a work of God’s sovereign grace! Christians are chosen, called and justified through the finished work of Jesus on the Cross. Do you see that word justified? That’s a legal term- a courtroom language! The theme of justification by faith is one of the main themes in Romans. Justified means to be declared righteous, not guilty! So, if we are not justified by our works, but by faith, what does that do to our hearts? There’s an implication here: If you want to know how secure you are in your justification, look at how you respond when corrected. If God justified us by faith alone, why are we still trying to justify ourselves when people confront our sins or correct us? Aha! There’s still self-righteousness that we think that is worth defending, isn’t it? There is an inner lawyer in my heart that I often call up when people confront me or try to correct me. When I do that I bring myself back into the courtroom! I’m still trying to defend my works-righteousness. If the court is adjourned and the judge has declared me not guilty, but righteous, why is my heart still trying to justify? See, it means my heart is not yet secure in my justification. It shows that my heart is not secure in the truth that I am justified by faith. So, if God is the One who justified us by faith, we, of all people, are to be the most humble! We would be free!

Look again here! What is God’s plan for us from the beginning of time? He predestined us. The God of the universe, long before the foundations of the world, predestined us. And He called us through the preaching of the Gospel. There is nothing we have done to deserve this. Jesus received the wrath of God we deserved in order that we might be justified by His work- not our works. There is nothing we have done to add to God’s sovereign plan. He called us by grace in His Son. And He justified us. He declared us righteous, not guilty, because Jesus took our guilt and condemnation (v. 1)!

So, if we really believe (functionally) that God is the one who justified us, we will feel less and less self-righteous. That’s sanctification! We will feel less and less defensive, when corrected, if Christ is our defense! Why? Because self-righteousness is not worth defending! It has been crucified with Christ! If God’s justifying grace is ravishing to you heart, you’ll feel less self-righteous! And you won’t look down your nose on others! How can you? Look at this verse again! (v. 30). If God is the One who justified us by faith, our works will not make us proud. Serving others will not make us proud! Ministry will not make us proud! Because this verse says there is nothing we bring to the table of grace. It’s all God’s sovereign grace working in us from the beginning to the end. Paul says we have received the call of God through His Son. God called weak people who cannot contribute anything to their redemption. Why is this such a great hope for us? Because if He has predestined us, everything is in His sovereign hands. If He has called us and justified us by His grace, not as a result of our works, He will see our salvation to the end. Our future is secure!

Why is this such a great comfort? Look again at the word “glorified!” It’s in the past tense! This is beyond all comparison! Paul said earlier, in v. 18, “For I consider that the sufferings of this present time are not worth comparing with the glory that is to be revealed to us.” Our future glory has been secured by Jesus’ work on the Cross.

Do you remember how Paul said earlier, in v. 28, “all things work together for good for those who are called” ? See, this is the “good” that God is working in you to the end of your life, until Christ returns. Even though you are weak, struggling to pray, even though you’re still imperfect and sinful, even though you are groaning because of pain , frustrated and suffering, God is working it all together for your good. And this will lead to final glorification with Jesus (v. 30). He will glorify us with Christ when Christ returns. This is why Paul said earlier, in v. 17, that we’re “fellow heirs with Christ, provided we suffer with Him in order that we may also be glorified with Him.” No sufferings, no pain, no guilt, no evil, no virus, no sin, no depression, no death shall stand in the way of God’s plan to redeem and restore this entire creation. No longer will we “fall short of the glory of God” (as Rom. 3:23 says). God’s plan to save us began from eternity past to eternity in the future, and God will carry out this plan perfectly. He does this for our good and for His glory!

So, let’s rejoice! Let’s rejoice that our future is glorious and secure in Jesus! Rejoice and be glad! Let the nations be glad and sing for joy! Christians, of all people, are to be rejoicing for their future has been secured in the finished work of Jesus. And let’s share this great hope with others who are fearful, far from us, and weak like us, so that they too can become part of God’s plan of salvation.

| Pastor Joey Zorina | March 22 | Sunday | ©TheBridgeFellowshipTokyo |

Pastoral Letter To The Congregation | CoronaVirus

Note: Japanese text below. 日本語下に見てください。

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親愛なるBridge Family の皆さんへ

世界的にコロナウィルスによって多くの苦しみがもたらされています。今週、日本政府は大規模なイベントを延期したり、縮小するように国民に要請しました。全国の小中高、学校も臨時休校にするよう要請が出ました。最新情報を常に知ることは重要ですが、メディアの過剰な報道よって恐れや不安が取り除かれることもありません。私たちの教会は小規模なコミュニティなので、賛美、礼拝のために一緒に集まります。そして、私たちの心を、神さまに向け、神さまが全てを支配しておられることを思い起こしましょう。

予防、対策として

①入口にお手拭きを用意します。

②予防のため外ではマスクを着用してください。

③礼拝の間は、人と話す時に握手ではなく日本人スタイルでお辞儀をしましょう。

詩篇91編より、神さまの守りの約束のことばをシェアします。

「夜、脅かすものをも 昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。 暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も あなたの傍らに一千の人 あなたの右に一万の人が倒れるときすら あなたを襲うことはない。 あなたの目が、それを眺めるのみ。 神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。 あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。 あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。 主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」 ‭‭詩編‬ ‭91:5-11‬

罪(コロナウイルスよりもはるかに致命的なもの)は、何千年もの間、人類を殺してきました。だからこそ、救い主イエスさまが私たちを救いに来られたのです。イエスさまはいつの日か戻られ、全ての病、全ての苦しみを癒してくれます。それまでの間、主権者である神さまが許さない限り、悪が私たちに降りかかってくることはないという保証があります。そして、私たちには祈り、人をケアし、福音の明るい希望を伝え、私たちがどこにいても、傷ついた世界を慰めていく責任があります。 いと高き神、イエスさまは、私たちの心が住うところであり、避け所です。 正しい人は彼のもとへ駆け込み、そして守られます。

たくさんの愛と祈りを込めて

牧師 ジョーイ」

The Servant King Who Gave His All (マルコの福音書 12章38~44節)

(マルコの福音書 12章38~44節) 2019年9月29日

先週はある律法学者がイエスに、最も大切な律法について質問しましたね。その後イエスは「宮」で人々を 教え続けました。今日はイエスの「宮」での教えから学んでいきます。

1)宗教を見せびらかす人々(38~40節)

パリサイ人やサドカイ人と対立してのち、「誰もイエスにあえて尋ねる者がいなかった」(34節)とあ る。そしてイエスは引き続き「律法学者たちに気をつけなさい」と警告する。学者たちは「長い衣を着て歩 き回る」、つまり自分が宗教的に敬虔であることを見せびらかすのが好きだという。認められることに執着 し、外面を磨く。「広場で挨拶される」人から敬われるために生きている。だからイエスは、マタイ23章5 節で「彼らがしている行いはすべて人に見せるため」と言う。もし私たちが「すべて神の栄光のために」と 口で言いながら奉仕をしても、心の中をよく吟味する必要がある。

現代でも、外面を磨くことへの執着が文化になっている。誰もが人の賞賛を強く求めている。「会堂で上 席に、宴会で上座に」(39節)座ること自体が罪なのか?そうではない。しかし何かが(良いものでさ え)あなたの心の中で究極の価値となるなら、それは偶像である。30、31節でイエスは、最も重要な戒め は心、いのち、知性、力を尽くして「あなたの神、主を愛する」ことだと教えられた。律法学者たちは戒め をよく学んでいたが、力や高い立場を神よりも愛していた。もしあなたが職場で、神を愛するよりも、栄誉 や高い地位を愛しているなら、何かに失敗する時が来たら恥に打ちのめされてしまうだろう。

「やもめの家を食い尽くす」(40節)とは…。1世紀から、律法学者たちは熱心なユダヤ教徒にもてな しを受けていたが、中には、地位を濫用して貧しいやもめらから搾取する者もいた。今日も、労働者を不法 に酷使し、報酬を払わない企業もある。イエスは不正な学者たちに言及し、彼らが「見栄をはって長く祈 る」と指摘する。宮は「あらゆる民の祈りの家」(11章17節)であるはずなのに、他人に感心してもらう ための祈りとなっている。こういう人たちは「より厳しい罰を受ける」とイエスは言う。旧約聖書に、やも めを虐待する者は滅ぼされるとある(イザヤ10章1~4節)。いかなる不正も罰を免れないし、宗教学者た ちはより厳しい裁きを受けるというのである。しかしイエスの教えはそれだけではない。。。

2)自分を犠牲にして与える者(41~42節)

(註:宮の中には、異邦人の部屋、婦人たちの部屋があった。)イエスは11章の異邦人の部屋から、婦人 たちの部屋へと移られた。婦人たちの部屋の壁には、らっぱの形をした入れ物が13個、献金のために取り 付けられていた。

イエスは「献金箱の向かい側に座り」、人々が献金箱にお金を投げ入れる様子を「見ておられた」(41 節)。(英語では”watched”:観察するという語)。献金は、キリスト者が神に捧げる礼拝の、一つの形。 だから、その心がどこにあるかが非常に重要。律法学者たちは人々にどう見られるかを気にしていたが、神 にどう見られるかは頭になかった。しかしイエスは「見ておられ」、彼らが神を礼拝しているかどうかをご 存知だった。弟子たちには「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、 天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(マタイ6章1節)と教えられている。献げもの をするとき、神のみがあなたの聴衆である。

「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」とある。エルサレムでは『過越しの祭り』の期間中であっ た。レプタ銅貨はパレスチナで最も小額の通貨で、2レプタあっても宮の建築費として献金箱に入れるか、 小さないけにえを買うお金にしかならなかった。

想像してみよう。たくさんの硬貨を献金箱に入れたら、ジャラジャラと大きな音がして、人々は誰がそん なにお金を入れたのかを見るために振り返るだろう。自分の富を見せびらかすのは容易い。一方このやもめ のコインは、「ティン」と小さな音を立てることしかできなかった。着ている物も金持ちの長い衣のように 立派ではなかっただろう。しかしこのやもめの心は神に向いていた。

ここで律法学者たちや、偉そうな金持ちを批判するのは簡単である。しかし私たち一人ひとりも、神の前 に自分の心を問うてみる必要がある。私は自分の賜物を、時間を、お金を、そしてエネルギーを、神に献げ ているか?と。最も大きな間違いは、神に属するものを、私たちが神にお返しせず、自分の利益のために用 いていることだからだ。17節でイエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と 言われたのは、税金がカエサルに属するなら、礼拝と献げものは神に属するという意味であった。あなたは 神の「かたち」に造られた、だからあなたの人生と、あなたが持っているものは神に属する。あなたのすべ てが、神への献げものであってふさわしい。

神がくださった賜物、時間、エネルギーを、あなたは何のために使っているだろうか。あなたにいのちを くださった神に、あなたが持っているものを捧げない、それほどの間違いがあるだろうか。もし学者たちが 「より厳しい罰を受ける」のだとしたら、神に対していのちを捧げることを拒む者たちにも同じ罰があるこ とだろう。しかし、この罰の中に私たちはとどまる必要がない。私たちが捧げることができないものを、捧 げてくださった方がおられるからだ。

3)私たちのために、すべてを捧げられた方 (43~44節)

「あり余る中から投げ入れた」(44節)人々を褒めなかったイエス。裕福な有名人が多額の寄付をする 時、人々は彼らを褒め称える。なぜイエスは褒めなかったのか。犠牲を伴わない捧げものだったからだ。彼 らは何も失わなかった。なぜイエスはこのやもめを「だれよりも多く投げ入れた」(43節)と褒めたの か。貧しい中から、持っているすべてを捧げたから。彼女の礼拝は、失うものの大きい行為だった。しかし 彼女はすべてを捧げることで、自分の必要を満たしてくださる神に信頼を寄せた。

旧約聖書は、持ち物の10分の1を捧げるよう教えているが、彼女は10分の10を捧げた。なぜそのような ことができたのか。答えはただ一つ、彼女が神を愛し、自分を養ってくださる唯一の方として信頼していた から。もし私たちが本当に、自分のいのち、仕事、健康のすべてが神からのものと信じるなら、なぜ神に捧 げられないものがあるのだろうか。

金持ちに恵んでもらわなければ生活できなかった彼女が、献金を免除されることを求めなかった。自己憐 憫して「これしか持ってないなんて、不公平です」とは言わなかった。彼女の富は、彼女の持ち物ではな かった。彼女の富は、神の寛大さによって定義されていた。あの裕福な青年は、持ち物を貧しい人に分け与 えるように教えられて「悲しみながら立ち去った」(10章22節)。学者たちは自分たちの評判や富よりも 神を愛すことができず、貧しいやもめたちを愛することができなかったが、このやもめは自分のすべてを尽 くして神を愛した。この愛は、何かを私たちに思い出させないだろうか。イエスはご自分がメシアであるこ とを教えられたばかりだった(36節)。イエスがやもめの献金を褒められたのは、それがご自分がこれか ら十字架上で示される犠牲によく似た例であったからではないか。だいぶ後に、パウロはコリントの教会に 宛てて書いた手紙の中で、主の犠牲に言及している。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたの に、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者と なるためです」(第二コリント8章9節)

「タイズ(10分の1献金)が旧約聖書のルールなら、新約以降の教会が捧げものを求められる理由はない だろう?」と言う人もいる。しかしむしろ「福音を理解した私たちが、旧約で求められたタイズよりも捧げ ない理由はないだろう?」と問うべきだ。マケドニアの教会は規定以上に捧げていた(第二コリント8章3 節)。どうしたら私たちは欲から解放され、神への捧げものとなって自由に生きることができるだろうか。 十字架ですべてを捧げられたイエス、私たちのために喜んで、貧しくなられたイエスに目を留めよう。貧し さの最たるものは、すべての祝福の源である神から切り離された状態。私たちは罪を犯し、その裁きを受け るにふさわしい者だが、キリストがそれを代わりに受けてくださった。すべての王の中でもっとも豊かであ られた王が、あなたが「富む者となるため」、その富を投げ出された。このキリストの恵みを今日味わって ください。それがあなたの心を溶かし、あなたを新しくするまで。毎日、毎時間、毎分、あなたが安息と、 平安と、喜びと、満足を経験するまで、あなたの心の中で欲望の鎖が壊れるまで、キリストの満ち溢れる恵 みを見つめてください。キリストこそが真の富です。

イエスは「会堂で上席に、宴会で上座に座る」ために来られなかった。最もさげすまれた場所を、十字架 を、選ばれた。そこで、私たちの罪のため、恥と貧しさとを味わわれた。律法学者たちと対照的に、イエス は弱い者、社会から追い出された者、やもめ、そして罪人たちに、ご自分のいのちを惜しみなく差し出され た。私たちが生きることのできない犠牲的な生き方を、イエスは示され、私たち全員が捧げるものをはるか に超えて、ご自分自身を捧げられた。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っていま す」とパウロは言う。キリストにより、あなたがたは富んでいる。その恵みをよく見てください。

もしキリストの恵みと寛大さに圧倒されているならば、私たちも寛大で献身的な生き方をするようにな る。あなたのために血を流された寛大な救い主の姿を見るとき、あなたは自分の時間や賜物やエネルギーを 彼のために出し惜しむことはできないだろう。私たちの与えられているすべてを、キリストとその福音のた めに、共に捧げていきましょう。

The Gospel of Mark Series | Ch. 12: 38- 44 | Pastor Joey Zorina

In this episode we learn about how the gospel frees us from the grip of greed and motivates us to live sacrificially and generously. The gospel is the antidote to everything.

Gospel Priority: Seeking First The Kingdom.

Read Matthew 6: 24-34.  

Seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things will be added to you” (Matthew 6: 33).


In the everyday rhythms of this anxious and busy city how can we have peace?  

If we try to seek first the kingdom of God without His righteousness, we will be self-righteous and religious, but we will miss the true King and His kingdom.  

If we try to seek these additional things before the kingdom of God, they will become our kings and disappoint us with false promises.

If we try to build our mini-kingdoms by seeking the additional things, we will remain outside of His kingdom forever as outcasts!  

If we make these additional things into ultimate things, and try to build our own kingdom, they will leave us empty and crush us in the end.  These additional things that we seek apart from Him are the very source of our anxiety.

So how can we seek the Kingdom of God first and have peace?

  • Receive the greatest King who came to seek you first.  Receive the King of kings who gave up all His wealth to seek and save you from sins that are destroying you.

  • Receive the King who gave His all to save you from your kingdom that was enslaving you with anxiety.  

  • Receive the King who came to be the last even though He is the first, in order that you might be clothed with royal robe in His Kingdom.  

  • Receive His righteousness and renounce yours.  Let His righteousness be your security so that you can be free from the insecurity that these additional things bring.  Let His righteousness free you from a heart of contempt.

  • Rest in His righteousness by repenting of your self-righteousness.  

  • Receive His Kingdom and renounce your little kingdom.  Align everything you do with His kingdom in mind. Say no to former priorities that were preventing you from entering His Kingdom.  Say yes to the priorities that will help you seek His kingdom everyday.  Reimagine your life and job as participation of His kingdom advance.  Lastly, rest in His promise that “all these things will be added to you.”  

什一献金は今日でも必要でしょうか?

Is Tithing Required Today? (for English click here)

什一献金は今日でも必要でしょうか?

什一献金(収入の十分の一を献金すること)について反論や混乱を招いている主な原因としては、それが旧約聖書で定められていた事であるため、「新約聖書の時代の教会でも必要なことなのか」という疑問が湧いてきます。

実際、新約聖書のどこにも什一献金を捧げるべきだとは書いていません。教会によってはマラキ書3:10の聖書個所を乱用して、義務的に献金を行い見返りを期待するよう教えていますが、新約聖書の中では什一献金をするように命令している箇所はありません。

しかし、使徒パウロがコリントの教会に手紙を書いた時、彼は全く異なる方法でアプローチをしました。彼はコリントの教会に惜しみなく捧げるよう励ますため、マケドニアの教会の気前の良さを例に取りました。

パウロは彼らに(2コリント8:1)“マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて”知ってほしかったのです。それらの教会は(2節)“苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となった”のです。

彼らの体験した神の恵みがあふれ出て、彼らの貧しさにも関わらず、惜しみなく施す富となりました。彼らを惜しみなく施すよう突き動かしたのは、福音の恵みによる“満ちあふれる喜び”でした。言い換えれば、彼らは什一献金以上(旧約聖書で必要とされていた以上)に捧げていたのです。  

たくさんの恵みを受け取った新約聖書の信者たちとして、パウロは(3節)“彼らは自ら進んで、力に応じ、いや以上にささげ”  たと言いました。

彼らは什一献金以上に捧げました。そしてパウロは義務感や意思の力に訴えかけるのではなく(8節)“私は命令するのではありません”と続けました。その代りに、既に受け取っている福音の豊かさを思い出すように言いました(9節)“あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです”。

ティム・ケラーは新約聖書のザアカイがイエスと出会った時の場面を思い返し、ザアカイが悔い改めた後についてこのように言いました。

“ザアカイは収入の50%を貧しい人々に捧げると約束した。それは律法で定められた10%を遥かに上回る額である。今日では、収入の10%を寄付するというと莫大な額のように思われるが、裕福な人々はそれ以上に捧げても快適な生活を送る事ができる。ザアカイは進み出た時にその事を知っていた。彼の心が変えられていたのだ。救いが律法によるものではなく恵みによるものだと分かっていたため、律法を満たすためだけに生きようとはしなかった。それ以上に進み出た・・・イエスは私たちを救うために、自身の命と血の‘十分の一’を捧げただろうか?それとも全てだっただろうか?・・・私たちは神が救いのために成された業を少ししか理解していない者達のように、収入のほんの一部を捧げるような者には決してなりたくない”(ティム・ケラー:偽りの神々)

シンプルな言葉で言うと、新約聖書の信者たちが旧約聖書の信者たちよりも多くの恵みを受け取っているなら、私達にはより自由に捧げる理由があります。

私たちが捧げる量は、無償の恵みという福音をどれだけ理解いているかを表します。または、自分自身のプライドのため(“私は定期的に什一献金を捧げている”)や恐れ(“もし捧げなければ面目が立たない”)によります。

しかし福音の中で、私たちはキリストにある神の恵みの動機づけられて捧げる事ができます“主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです”。

イエスは、私たちが永遠に富む者となるために貧しくなられました。神は私たちの心に福音の富を蓄えて下さったため、この地上の誰よりも与える事ができるのです。

パウロが(7節)“この恵みのわざにも富むようになってください。”と言っているのはこのためです。全てを私たちのために捧げて下さった裕福な王を驚き仰ぎつつ、私たちの恵みのわざにも富むようになりましょう。

牧師 Joey Zorina.

Is Tithing Required ?

One of the main objections or confusions regarding giving tithes today is that since tithe (10% of your income) was a requirement in the Old Testament, the question goes: “Why are New Testament churches requiring tithes today?” It is true that nowhere in the New Testament does it say that Christians must tithe. While some churches misuse the text in Malachi 3: 10 to motivate people into giving with great returns, nowhere is there a command to give tithes in the New Testament. However, when the apostle Paul wrote to the Corinthians, he took a very different approach. To encourage the Corinthians to give generously to the Jerusalem church, Paul used the generosity of the Macedonians as an example to the Corinthians.

He wanted them to know (v. 1) “about the grace of God that has been given among the churches of Macedonia.” Although these churches were (v. 2) “in a severe test of affliction, their abundance of joy and their extreme poverty have overflowed in a wealth of generosity on their part.” The grace of God they experienced overflowed in a wealth of generosity despite their extreme poverty (not prosperity). It was their “abundance of joy” in the gospel of grace that moved them to give generously. In other words, they gave more than tithes (which was an Old Testament requirement). As New Testament believers who have received so much grace, Paul said, (v. 3) “they gave according to their means, as I can testify, and beyond their means, of their own accord.” They exceeded tithes.

And instead of appealing to their guilt, or manipulating them to give at the level of their will power, Paul said, (v. 8)  “I say this not as a command.” Rather, he pointed them to the riches of the gospel that they have already received: (v.9) “For you know the grace of our Lord Jesus Christ, that though He was rich, yet for your sake He became poor, so that you by His poverty might become rich.” 

In his reflection on the story of Zacchaeus’ encounter with Jesus in the New Testament, Tim Keller said that Zacchaeus, after having repented:

“promised to give away 50 percent of his income to the poor. This was far beyond the 10 percent giving that the Mosaic law required. Today, to give away even 10 percent of our income to charity seems an enormous sum, though wealthy people could do much more and still live comfortably. Zacchaeus knew that when he made this offer. His heart had been affected. Since he knew salvation was not through the law, but through grace, he did not aim to live by only fulfilling the letter of the law. He wanted to go beyond it........Did Jesus ‘tithe’ His life and blood to save us or did He give it all? ... We certainly wouldn’t want to be in a position of giving away less of our income than those who had so much less of an understanding of what God did to save them.“ (Tim Keller: Counterfeit Gods)

In simple words, if New Testament believers have received more grace than the Old Testament believers did, we have more reasons to give liberally. Our giving will always be in proportion to our understanding of the gospel of free grace. Our giving will either be motivated by self-congratulatory pride (“I give my tithes regularly”) or fear (“If I don’t give it will make me look bad”). But in the gospel, we can be motivated by the grace of God in Christ “that though He was rich, yet for your sake He became poor, so that you by His poverty might become rich.”  Jesus became poor in order that we might become rich eternally. God has deposited the riches of the gospel in our hearts and therefore we have more to give than anyone else living on the face of the earth.

This is why Paul says, “see that you excel in this act of grace also.” (v. 7). Let’s marvel at our rich King who gave His all for us, and let’s excel in this act of grace also.